宮崎作品と富野作品の違いはなにか

 Gのレコンギスタ(Gレコ)という作品は、富野監督の15年ぶりの地上波連続テレビアニメしかもガンダム物ということで毎週かかさず観ている。(録画とスマホですが)やはりロボットアニメを作らせたら、富野監督以上の人は世界中どこにもいないと思う。
 それはさておき私の年代(団塊ジュニア)からするとアニメと言ったら富野由悠季か宮﨑駿なのだが、両者の違いがなんとなくわかってきた気がした。

 ステレオタイプな見方だが、日本文化を縄文系と弥生系に分けるという方法がある。それに従うと富野作品は縄文系で宮崎作品は弥生系ということです。

 まず文明というものに対する態度が宮崎作品と富野作品では違っていると思う。

 縄文と弥生の区別は文明の有無といえる。つまり階級制、城郭や都市の存在、効果的な食料生産(農耕中心の食料生産)、記念碑的公共性産物(ピラミッドとか)、文字、冶金技術などが文明の特徴である。縄文社会に文明はなく弥生社会から文明は始まると考えられている。


 宮崎作品では「風立ちぬ」で明らかになったように、ピラミッドのある世界とない世界どちらを選ぶのかという問いにはピラミッドのある世界を選んでいる。(「風立ちぬ」は宮崎監督の本音がいちばん分かる作品です)つまり文明を選んでいる。これは搾取される階級と搾取する階級があるということである。乙女を生贄にして素晴らしい飛行機を作った、パイロットを生贄にして太平洋戦争を戦ったという話が「風立ちぬ」なのだ。

 城が主人公の作品(ハウルね)も文明的と言える。

 それから宮崎作品には頻繁に農業の描写がある(未来少年コナンのハイハーバー、ナウシカの風の谷)農耕に対する態度は「人間が生きていくには絶対欠かせないもの」と考えているように感じる。労働しないと死んじゃうし、うわついた遊びや祭りなんてものは否定します。(千と千尋の両親とか歓楽街である油屋の描写を見よ)

 文明に対してネガティブな感情があるものの、それを含めて肯定している。文明肯定、労働重視は弥生系。


 一方、富野作品は文明的なものについて批判が目立つ。

 例えば、文明の特徴である階級制に関しては批判的である。Gレコではクンタラという被差別階級が出てくるのだが、彼らはその身分に甘んじず自らの戦いを挑んでいる。ザブングルやエルガイムという作品でも主人公たちは支配階級に戦いを挑む。ガンダムF91という映画では階級制を主張する敵が出てくるのだが、主人公たちの活躍で撃退される。

 また、戦争に利用されるニュータイプや強化人間(サイボーグ)は搾取への悲しみと否定を持って描かれるのである。

 つまりピラミッドを作ることには否定的に見える。階級制および搾取の否定は反文明的であり縄文系とも解釈できる。

 また、ブレンパワード以降の後期富野作品にも農耕の描写があるのだが、農耕そのものより、それに伴う祝祭(喜びの表現)のほうが印象に残る。農耕と祝祭どちらが人類史上先に登場したかははっきりとした根拠はないが、農耕以前にも祝祭はあったのだろうと思う。ここで祝祭は縄文で農耕(労働)は弥生と考えると、富野作品は縄文系なのだ。


 次に作品そのものの違い。


 まず宮崎作品だが、その特徴は緻密に練り上げた世界観、作品やスタッフへの徹底した管理なのではないか。実像はともかく「整った作品」「まとまりの良い作品」という印象がある。弥生時代の土器や農耕具や祭祀器と感覚が共通する。


 富野作品はむしろ逆で、連続もので一週一週出来にムラがあったり、その場の流れを受けて変化するような構成が特徴的である。要するに歪みがある。いびつな中にもまとまりが出現している。以前のフィルムのツギハギで1エピソード作ったり、OPやEDを作ったりするのもそんな印象がある。それは楽焼や縄文式土器に似ている。


 ここでも弥生系=宮崎、縄文系=富野と思う。
 
まあ他人から見たらつまらないのだろうがメモ代わりに書いておきます。